自伝的老齢論の第二弾、推理小説で有名な森村誠一著の『老いる意味』を読んだ。
老いをテーマにしたエッセイや評論を読むスタンスは、高齢者住宅を運営している者として、高齢者への理解を深めようという気持ちからで、私自身60歳代後半であるので、世間的には充分高齢者の部類に入ると思うものの、後期高齢者と言われる75歳以上の人の気持ちはハッキリ言って良く分からないからです。
体力の低下や病気などによって自身の肉体的な限界が見えてきたとき、一体どのように考え方や精神的な在り方が変わるか、どのような世界が見えるか、きっと元気な時と違った世界が見えるのではないか、と思うからです。その変化の原因となる理由が意外と表に出てこないで見過ごされているような気がします。「私は何々病で大手術をして、半月ぐらい入院してから心身ともに本格的な老齢に入りましたのでよろしく。」と口上を切る人も少ないと思うし、逆にそういう事態を過ごしても、まだまだ自分は大丈夫だということで、無理をしてしまうのが普通でないかと思うからです。
例えば樋口恵子の『老いの福袋』に出て来るオペラ好きの老婦人が、毎月のように出かけていたオペラ鑑賞に行かなくなったのはトイレの問題だったということ。高齢になるとトイレのコントロールが効かなくなることはよく聞くことですが、観劇やコンサートなどは途中で座席を立つことで、他の人の迷惑を考えてはばかるようになるということらしい。言われてみるとそうだろうなと思うが、“真相”を知らないので、外出して観劇をしなくなったと言われても、単純に足腰が弱くなったり、視力や聴力の低下でステージものが楽しめなくなったのだろうとしか思わないものです。本当はもう二度とオペラには行けないなと思うような、何かの大きなきっかけや事件があったのかもしれない。
さて、『老いる意味』であるが、樋口恵子の『老いの福袋』と同じ老いをテーマにしたエッセイ集であるが、全く正反対のトーンの著作であった。樋口恵子の『老いの福袋は』はウイットとダジャレっぽい話が詰まった明るく元気な自伝的老齢論であるが、森村誠一の『老いる意味』は至って真面目で、深刻で、それゆえ明るさと元気のない自伝的老齢論となっている。これは著者の生真面目さを物語っているのだろうが、読む側としては読み続ける気力を失わせるものだった。特に第一章の「私の老人性うつ病との闘い」は読むのも辛く、私自身も読んでるうちにうつ病になるのではないかと恐怖感に襲われ、暗い気持ちにならざるを得なかった。
それぞれのエッセイのテーマは樋口恵子の『老いの福袋』と似通っていて、どちらも共通点としては70歳代が老いの曲がり角であること(75歳以上を後期高齢者と名付けて厚労省は世論から避難されたことがあったが、今から思えば非常に適切が分類であったと思わざるを得ない。)、両者ともネコを飼っていてネコに寂しさを補ってもらっていること、大病をして人生観が変わったこと、美味しい食べ物が重要なこと、トイレの問題のこと、親しい友人が一人ひとり亡くなり表現しがたい寂しさと孤独感を味わっていることなど、共通点が多い。
よく高齢者の同窓会などでは自分のかかった病気の話ばかりが出るというのを聞いたことがあるが、「老い」をテーマにする限り似通ったテーマにならざるを得ないのだろう。二つのエッセイ集は高齢者に関するテーマに対するアプローチの仕方、表現の仕方は正反対であったが、最終的には「大変だけれども頑張ろう!!」「百歳まで長生きして上げるぞ!!」という積極的なスタンスは同じであり、読み手を安心させるエンディングだった。