吉村昭の『白い航跡』上下二巻を読んだ。これもやはり幕末から明治維新の時代の医者の話である。先の『暁の旅人』と『夜明けの雷鳥』の二人、すなわち松本良順と高松凌雲は幕府サイドの医者であったが、この『白い航跡』の主人公高木兼寛は官軍サイド、薩摩人として戊辰戦争に参加した。初戦の鳥羽伏見から五稜郭まで行っているので、幕府サイドの二人の医師と高木は全く同じ時期に戊辰戦争の敵と味方に分かれて戦っていた。
医者としてのキャリアでも、欧州留学で学んだ西洋医学であった点は幕府サイドの二人と同じだ。幕府サイドの二人がフランスの医療を学んだのに比べて高木はイギリスロンドンで学んだ。ロンドンの聖トーマス病院医学校に留学。在学中に最優秀学生の表彰を受け、外科医・内科医・産科医の資格と英国医学校の教授の資格を取得しているので、相当優秀な医者であったことが判る。
明治に入ってから欧米の列挙の中で、フランス、ドイツ、英国、米国という4つ大国から欧米の文化と学問を輸入をして、近世の日本が築き上げられたのだが、医療に関しては陸軍がドイツ、海軍がイギリスという対立構造にあった。
高木兼寛で面白い話がある。高木は明治時代の海軍軍医総監という海軍軍医のトップになった。同じころ陸軍の軍医のトップである軍医総監は、かの有名な小説家である森鴎外こと森林太郎であった。この二人は、当時帝国陸海軍が抱えていた深刻な職業病ともいうべき兵士の病気、脚気(かっけ)に対する対処の方針が全く違っていた。高木は欧米列国の海軍の将兵には脚気が殆どないことに着目して、軍艦内の食事についてパンを中心とする洋食に切り替えた。彼は脚気の原因をビタミンB1不足であるとは思わず、肉食のタンパク質不足だと考えていた。しかし、本当の原因は白米を主食とするところから来るビタミンB1不足であるから、結果的にはパン食中心という対策は非常に良い効果を得た。それに対して、陸軍の森鴎外は脚気の原因を食物から来るとは思わず、脚気菌(実際は存在しない。)が原因とし、頑なに白米を主食とするという配食を変えなかった。そのため、日清戦争の脚気死者は、海軍ゼロに対して陸軍は約4千人。日露戦争の陸軍の脚気患者は約25万人で、うち約2万8千人が死亡。戦死者の総数が約4万7千人であるから、半数以上が脚気による死亡だったという悲惨な結果となった。
今日では脚気で人が亡くなるということは全くないが、当時は陸軍も海軍も脚気の真因をつかめず、しかし海軍は欧米の船乗りには脚気が殆どないことからその理由は食事にあると仮定し、我が国の海軍の艦艇乗組員も欧米と同じ食事をすれば脚気はなくなるはずだという演繹的な解決策を実行したところにその成果の差が出た。
余談だが、当時の我が国の農民は貧しくて日常的に白米を食べることが出来ず、軍隊に入れば毎日白米が食べられるという入隊動機付けが、森鴎外をして白米食を止めさせることが出来なかった理由だという説が伝えられている。しかし、明治時代の徴兵検査で、甲種合格は対象者の10~20%に過ぎなくて、ある意味、地域社会のエリートであり(筆者の祖父は群馬の村出身(=今は前橋市)で日露戦争に出征しているが、村で数少ない甲種合格だったということが家族の自慢だったという話を聞いている。)、白米を毎日食べられるということが入隊動機だというのは昭和時代の徴兵制度と勘違いしているのではないかと疑わざるを得ない。