吉村昭の作品には江戸時代から明治時代にかけての医者を扱った歴史小説がいくつかあります。先日はこの書評ブログで、同じ著者である幕末医師松本良順を描いた『暁の旅人』を紹介しましたが、今回は同じく幕末医師の『夜明けの雷鳴』の高松凌雲である。松本良順は医師として戊辰戦争の会津戦のあと、函館五稜郭に向かう新選組土方歳三に説得されて、江戸への帰還を果たしていますが、高松凌雲は函館戦争まで行って医師として参戦しています。
両者ともに幕末において徳川家の命を受けて医師としてのフランス留学組です。巷に良く言われるように、江戸幕府は遅れていて明治新政府により日本は急速に発展したという説がありますが、この説はあまり正しくありません。江戸幕府に流入する欧米文化の情報量の多さ、それに対する文明開化への意欲、欧米文化への吸収力などには貪欲なものがあり、明治時代の発展への貢献度は、薩長土肥と言われる倒幕諸藩を凌ぐものではなかったかと言えます。明治新政府の薩長政権が江戸時代は後進的であったというフェイクを流布し広めましたが、今は江戸時代の良さを評価するような論説が巷に溢れています。新選組のドラマが映画やテレビでもてはやされるのもその影響です。また同様に現代史では1945年以前の日本の政治や社会がひどくて、戦後は良くなった的な論評がありますが、この評価も明治維新の評価と同じで、このフェイク情報が改善されるまで少し時間がかかるのかもしれません。勝者が敗者の歴史を否定して悪く言うのはどの時代でも同じだと思います。
さて、吉村昭が信長や家康、秀吉のような、また西郷隆盛や大村益次郎、吉田松陰と言ったような歴史上の大人物でもなく、医者という国家レベルの偉業を果たすはずもない職種の、ある意味、市井の人物を描くのは、その時代の庶民の生活を描きたいと思っていたからに違いないと思います。そこに小説家としての思い上がりや山っ気もないので好感の持てるところです。
高松凌雲は築後の農民の出身でありながら医師になりたくて、大阪の有名な緒方洪庵の適塾で学び、そこでオランダ語や英語の能力で頭角を現しました。その学才を知った一橋家から請われて専属の医師となり、慶喜が将軍になるとともに幕府の奥詰医師となりました。大河ドラマ「晴天を衝け」の渋沢栄一と同様、数年で単なる農民の身分から当時の政権中枢に近いところで活躍することになったということです。江戸時代末期の混乱期には適材適所、能力主義という今的な課題に対する対応が既に実行されていたということです。
松本良順は結局明治政府の影響下の強い大病院の院長などを歴任することになりますが、高松凌雲は最後まで徳川家への忠誠を果たし市井の医師として一生を終えています。しかしフランス留学時代に学んだキリスト教下の医療への思いは拭い去れず、我が国の赤十字運動の先駆者になったとのことです。
次は明治維新期の徳川方の医者ではなく、同時期のロンドン留学組の薩摩藩出身の医師高木兼寛について記した吉村昭『白い航路上・下』を紹介します。